ヨハン・マッテゾン(1681~1764)の最初の著書
「新しく開かれたオーケストラ」を読みました。
マッテゾンは作曲家ですが、
この本の中で17の調性について
その性格を論じており、
これがバッハの解説書などに
よく引用されます。
ただし、本人も述べているように、
各調性の性格や印象というのは、
人それぞれですので、
マッテゾンもあくまで主観の一つとして
書いています。
その他にも、
ちょうどこの本が出版された当時に
発生(?)し始めた
市民階級の音楽愛好家への手引書として
音楽の仕組み、和声の規則、などの音楽理論、
欧州各国の音楽的な趣向の比較、
音楽の様式や形式、
そして各楽器の説明など、多岐に渡って述べた
当時としては画期的な著作です。
で、訳者の村上氏もあとがきで触れられていますが、
楽器説明の中のリュートに対する攻撃が凄まじい。
マッテゾンも子供の頃リュートを習得したそうですが
(と言ってもそれが特別なことではないくらい
多くの楽器に習熟していて、執筆時にはハンブルグ大聖堂の音楽監督)
大変なディスりようですw
詳しくは読んでもらうのが一番なので、
引用しませんが、
ただ、ここで言われていることを僕なりに解釈すると、
リュートの愛好家がまだ多かったであろう当時、
リュート独特の魅惑的な響きが、
必ずしも音楽理論や対位法や作曲技法に長じていなくても
愛好家に素敵な音楽を奏でることを可能にすることや、
とりわけマッテゾンが指摘しているような
調弦や音程の問題も、
ある意味、ギターに共通するというか、
ソルが自身の教本で散々他のギタリストを
ディスっているのと似たような根を持つ問題なのでは?と感じられます。
これはリュート、ギター属という、
雰囲気にとても依存するというか、
(マッテゾンも「人をいい気持ちにさせるリュート」と書いている)
鍵盤楽器やオーケストラを基準に発達した
西洋音楽理論に基づく音楽を実現させるには制約が多い、というか、
あるいは西洋音楽の体系的な構築が持つそれとは別の要因が
その楽器を魅力的に見せている、という特性を持つ
フレットありの撥弦楽器については、
ある程度いつも起こり得る批判な気がします。
(マンドリンやウクレレだってその謗りを免れない)
僕が昨日書いたハイドンの記事での、
古典期のギタリスト作曲家の問題も、
言ってみればマッテゾン氏のリュート批判を
そのままギターに置き換えることが可能なわけで、
やはりフレット楽器族というのは、
音楽の(西洋の)理論的な展開を実現するのには
不自由でありながら、
同時にそれに依拠しない不思議な音楽性を発揮しえる、
というのは
ギターだけは南米、アジア、アフリカを含む世界中で
様々な民族音楽に溶け込めていることや
20世紀以降、
ロックやポピュラーミュージックの世界で
楽譜を必要としない音楽家たちに愛されている、
ことが何よりの証拠ではないかと思います。
というわけで、
そういう楽器でクラシック音楽をやる、
っていうのは
職業としては苦労が多い、
ということをご理解ください 笑