22日の辻彩奈さんとのコンサートで弾く
バッハのヴァイオリンと通奏低音のためのソナタBWV1021、
以前に演奏したことがあって、かなり丁寧な浄書をしてあるのですが、
その時の経験を踏まえたり、年末年始に始めた勉強の成果を反映させたりしつつ
大幅ブラッシュアップ作業中。

こういうのを書くときに考えるのは、
とにかく簡単にしよう、とすること。
リスクをどれだけ減らせるか、は
本番、自分がどれだけリラックスできるか、
に関わってくる大きなファクターなのです。

もう一つ重要なのは、
こういう伴奏の音楽というのは、
それだけ聴いた時にも音楽の進むダイレクションが明確かどうか、
そして、その伴奏を聴いていて、あるいは弾いていて
楽しいかどうか、ということです。

共演者だって、
美しい、向かう先がはっきりと示されているものの上で
弾きたいに違いありません。

そして、メロディーとバスの対話、
これもクリアーに聴こえるようにしなくてはいけない。

そう考えると、クリアーすべきは、
1.簡明さ
2.美しさ
3.鮮明さ
ということになりますでしょうか。

これがパガニーニとかジュリアーニなどの、
ウィーン古典ものになってくると少し違ってきて、
というのは、明らかに対話している部分と、
和音でバッキングしている部分にはっきり二分される現象が
起こり続けるタイプの音楽なので、
和音で伴奏している時には
その低音の動きにそこまで濃厚なカウンターポイント感は必要ないし、
対話の時にはかなりはっきりと太い旋律感を出す要請に駆られている。

ロマンティック・フルートの柴田くんとのデュオなどは、
この領域です。

そしてそれをさらに時代が進んで近現代になってくると、
ギターは旋律楽器に対して、
無伴奏のチェロやヴァイオリンのようなイメージで、
撥弦楽器の語法で奏でる独奏キャラが強まってきます。

ですので経験上、
カステルヌオーヴォ=テデスコの「ソナチネ」や
ピアソラの「タンゴの歴史」武満さんの「海へ」などは、
つまり線(フルート)対うねりの帯(ギター)という感じに弾かないと生きてこない。
伴奏の延長線上で弾いてしまう、あるいは旋律側もそう受け止めてしまうと、
面白くなくなってしまう気がしてきました。


この、
形態がデュオであるにもかかわらず、
その配分のバランスが
扱う音楽によって変わってくる、という現象は、
僕はその都度それらに対して違うギターが開発されるくらいでも
良いのでは、と思うほどに大きな差異なのですが、
実際そういうことを完全に自覚的にコントロールしなくてはと思い始めたのは
僕でさえここ最近なので、
まだまだ未開拓の分野なのかもしれません。

昔、まだ20歳そこそこの頃に、
岩佐和弘さんに教わって聴いた
ランパルとラゴヤのライヴ・アルバム、
長らく廃盤で、ここ数年ランパルの全集みたいな形で復刻されてから
ようやくSpotifyなどで聴けるようになりましたけど、
その録音は今もって大きな示唆が溢れている気がします。

ヴァイオリン、あるいはフルートとピアノ、でもなく、
ハープでもない、ギターとのアンサンブル特有のアンサンブル状況、
というものがもっと意識的に開発されて然るべきなのかもしれません。

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カテゴリー 音楽
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