今日は久しぶりにパガニーニ練習。

22日にある辻彩奈さんとのデュオの
宗次ホール公演向け。

辻&鈴木デュオ(表)_merged+(1).jpg

ソロで弾くのは
パガニーニのグランド・ソナタから。

どこの楽章にしようかと思ったけど
多分、1と3の抜粋です。

この曲は昨年楽譜を現代ギター社から出版しようと思っていたのですが、
間に合いませんでした....
楽譜の方は校正を進めております。。。。

演奏の方も、
まだ、全然自分が楽しくなるところまで行けませんでした。
リハビリリハビリ。


パガニーニは、
モーツァルトをとても尊敬していました。
パガニーニの生きた時代に流行っていた音楽も、
だいたいモーツァルトをはじめとする作曲家の18世紀終わりのオペラだったですし、
フランス革命によって庶民に音楽が広まって、その寵児だったのがパガニーニ。

革命がおこらなくて、
音楽がもっと王侯貴族のクローズドなものであったなら、
パガニーニの音楽は少し赤裸々というか、オープンすぎたかもしれません。
しかし革命によって音楽を聴くようになった
それまでそれほどクラシック音楽に触れていなかった階級に、
速さ、音の多さ、美しさ、強さ
という明快なパラメーターで人気を博したのがパガニーニでした。

そんなパガニーニの曲なので、
ギター曲もいたって単純明快。
はっきりとした陰影、緊張と弛緩、
明確なハーモニーとスケール。

モーツァルトはそういう風に書いているようで、
時折半音ずらしとか、
後のシューベルトにつながるような
どきっとするような調性のつながりで
空間がねじ曲げられたようになる霊的とも言える局面が
よくよくあるんだけど、
パガニーニには、なし。
その代わりリズムの遊びとか、
とにかく細かな半音の転がりが
音楽を聴き馴染まない人にも、
はっきりとわかる。
「この人、すごい上手だよね!! 」
と言いやすい演奏なのです。

ただ、どちらのタイプの音楽も、
その音が息づいているフィールドごと
その音に乗って出てこないと、
全然輝かしさが半減してしまうのです。

これは昔、
「モーツァルト・ヴァリエーションズ」っていうCDを作った時、
ほんとに感じたことで、

例えばモーツァルトのピアノ協奏曲の録音とかを聴き比べると、
上手い下手、とかではなくて、
速すぎても、遅すぎても絶対にいけない神がかったテンポのようなものがあって、
そのストライク・ゾーンがめちゃめちゃ狭いんですね、モーツァルト。

だから、すごい演奏家だから、とか、
いいメンバーだから、とか以前に、
もうテンポが、あ、これでは何も起きないな、
という遅いテンポと、
これでは何が起きても聴こえないな、という速すぎるテンポ、
その間に、すごく狭い範囲に天国があって、
そこにはまるとそれは永遠に感じられてしまうのです。

モーツァルトのような深い作曲家じゃなくても、
例えばジュリアーニでも、それはそういう要素は多分にある気がしていて、
ある瞬間にとても素敵に聴こえるテンポがあるのですが、
それは総じていうと、そのテンポの中でのみ、
一つ一つの音が
何のキーの何のスケールのどの度数でなっているのか、
ということをしっかり識別できるような
音色で生み出されるからなんだな、と思います。
それが、その音の息づくフィールド、ということです。

古典の音楽は、
その音楽の持つ
スケールのカラーにとても意味があるように思うのです。

もちろん、タッチの速さとかもあるから、
適正テンポは奏者次第ってこともあります。。。
でも、そのタッチのスピードも含めて、
適正な速度があるような気がします、少なくともモダンの楽器では。。。


というわけで、
今日は全然そういう気分が味わえず、
若干欲求不満気味なのでした。




























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