対人の印象やスムーズさが気になったり、
自分の伝わり方で考えを巡らせてしまうというのは、
細やかな気配りではあるかもしれませんが
それ自体が目的ではないことを突然思い出しました。

どうして忘れていたかというと
やはりコロナ禍が原因として一番大きいのではと思うのですが、
ただ突然忘れたわけではなくて、
20年くらいかけてSNSなどの影響もあって徐々に忘れていった感じですね...

どうしても
無理してやらなくてもいいんじゃないの?
と言われつつ、それでも音楽が必要だ、と思ってくださる人を
探しつつやるわけで、
その中でどうしても、
ご迷惑じゃありませんよね!?
って顔色を伺ってしまうことが増えてきて
いつの間にかそこが主目的になってしまう。

結果どうなっていくかというと、
面白いことにその人その人の
これは必要な音楽情報です
っていうバイアスがそれ以外を侵食していくので
良い意味ではない平面的な音楽情報になってしまう。
演奏の内容も、プログラムも。

現代の芸術の場というのはやはり、
複合的な視点を想定していなければいけないわけで、
イメージとしては
セザンヌの絵画の遠近法のように、
いくつかの角度から見た透視図が隠されていても良いし、
あるいはピカソのキュビズムみたいに、
別々の角度から見た視野が並存していても良い。

なんだけどどうしても最近、
例えば、コロナ禍以後によく問題となる
フライング拍手だったり、演奏会なのに独り言を言ってしまうケースだったり
というのや
逆に演じ手が必要以上に観衆にコミットするような場面を知らぬ間に演じていたり、
というのが
いつの間にか自分の周りにも増えてきている中で、
自分がこの先歳を重ねるというのは、
コミュニケーションで壊れていくのではないか、
という漠然とした恐怖が沸き起こってきていました。

ちょっとひと月くらいそれに振り回されたのちに、
とどめとなる出来事がいくつかあり、
お先真っ暗なのかと思ったその矢先、ふと、

待てよ、
そもそもこれは目標ではなかった、
という、
つまり付随事項の中で必要以上に生きるか死ぬかをやっている
自分を発見したのです。


とはいえ、
そのようなコミュニケーション過敏症にも良い点はあり、
少なくとも確実に以前よりは、
人が喜んでくれる姿がリアルに自分に見えている。

皆さん物事というのは、
例えオールド・ファッションが再び巡ってきたとしても、
それは螺旋階段のように違う平面で繰り返されている、
ということはよく言われることですが、

これも自分にとってはとても豊かな源泉で、
手に取るように伝わってくるリアクションの中で、
もしかしたらほんの一握りの人にしか喜ばれないような
しかしながらそれは技術や美観の上で、
自分にしかできないアクロバットである、ということを
紛れ込ませていく。

考えてみたら
今までもそうしていたような気もするけど、
自覚して行えばもっと戦略的に展開していく気もするし、
あるいはそういう即物的なことじゃなくて、
もっと本物になって届く気がします。

そしてそう考えると、
自分が8弦ギターに手を出したきもわかる気がする。
誰にもわからなくても
アクロバットが生きている実感なのかもしれない。


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カテゴリー 音楽
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