シューベルトの音楽が受け入れられてきた歴史、
つまり“受容史”において、
声楽曲と室内楽曲、ピアノ作品、交響曲などのそれぞれに
タイムラグがあるということです。
前回にふれた、
映画『未完成交響楽』が製作された年代(1933年)、
一般の民衆の理解の範囲では
シューベルトはあくまでも“歌曲王”でした。
(僕らの子供の頃だってそれに近かった)
シューベルトは1928年に没後100年を迎えるのですが、
そこから新たなシューベルト研究に熱が入った、
という事情もあるようです。
ちなみにマヌエル・ポンセの「ソナタ・ロマンティカ」は
“ギターを愛したシューベルトを讃えて”という副題を持っていますが
この年に作曲されています。
偉大なピアニスト、アルトゥール・シュナーベルが
シューベルトのピアノ・ソナタをたくさん録音したのが
1930年代の後半以降であったこと、
交響曲なども、最近に至るまで
その正統なオリジナルでの解釈を
常に刷新されてき続けていること
などを考えると、
歌曲以外のシューベルトの音楽が、
如何に理解されてこなかったか、ということが
示されているような気がします。
僕自身の経験談でいえば、
2000年代の初頭でしたか、
確か雑誌のアンケートで、
クラシック業界の色々な人に
「好きなピアノ曲を3曲あげてください」
というのがありまして、
僕も回答したのですが、
その結果、なんとシューベルトの「ピアノ・ソナタ第21番D.960」
が上位三曲に入ったかなんかで、
(僕も入れました)
その時に自分でそれを書いた人達までもが一斉に
「あれれ??」って感じになったくらい、
シューベルトのピアノ・ソナタは
20世紀においては虐げられていた印象があります。
(つまりそんなことが起こるはずがないと思われていた)
僕が学生の頃(1990年代)も、
音大生の友人たちが学ぶ室内楽は
最終目標のベートーベンやブラームスは別として、
シューマン やメンデルスゾーンが主流でしたし、
シューベルトのトリオに至っては
(もちろんカザルスやルービンシュタインやボザールトリオなど、
巨匠たちによる名演は存在していたにせよ)
「展開もなく長すぎる」「ピアノの書き方が下手(=弾きにくい)」
などの理由で、
一段下に見る先生たちすらいらした記憶があります。
あ、この、
「ピアノが弾きにくい」
というのは本日の鍵となるトピックです。
僕は実際に弾くわけではありませんので、
想像の域を出ませんが、
例えば「アヴェ・マリア」や「セレナーデ」に聴かれる
伴奏音形、コードがあって、
その中で弾く階層を変える、というのは
多分にギター的にサウンドします。
それから、器楽に見られる
メロディーとその3度ハモりの連続や
連打の多さなども
非常に弦楽器的と言えるでしょう。
連打に関しては
この時代のフォルテ・ピアノのアクションの関係で
比較的連打しやすかったのだそうですが、
ただしそれだけではなく、
例えばパガニーニと親交のあったレニヤーニや
イタリア生まれでその次世代のZani de Ferrantiによるギターの曲の中にも、
ちょっと「バーデン・パウエルかよ」、
って突っ込みたくなるような連打が頻出するので、
この時代、ビーダーマイヤー時代とその影響の中の
とても特徴的な手法だったのかもしれません。
シューベルトの連打の用法で、
最も簡単に思いつく評判のよろしくない用例は
言わずと知れた「魔王」ですね。
緊張します。
この連打は流石に当時もちょっときつかったようで、
三連符じゃなくて二つうちの通常の8分音符に直してしまった
バージョンもあったそうなんですね。
まったく意味がなくなってしまうと思うけど。
ちなみに、当時出版されたギター版は
全部(和音じゃなく)単音で三連符です。
ただし「魔王」は極端な例だとしても、
総じてシューベルトの歌曲のピアノ・パートには
現代の代表的なピアノ奏法とちょっと流れの違う、
弾き方や声部進行が次から次へと現れるんです。
ですから最近は
歌曲のチクルスなんかにしても
「水車小屋の娘」や「冬の旅」などが
わりと頻繁に演奏されるけど、
30年前は圧倒的にシューマン の「詩人の恋」の方が
一般の音楽愛好家や駆け出しの演奏家のレベルにおいては
人気だった気がします。
あ、あと、
シューベルトのチクルスを演奏するのは
ちょっと神聖視されすぎていた、というのもありますよね。
その成立が仲間内の楽しみの延長であったにもかかわらず・・・
このように、
「ピアノが達者に弾ける人が書いた」譜面とちょっと違う
シューベルトのピアノ・パートが、
早くから「ギターで書いたから」という誤解を生みやすかった、
そう説明するとなんとなく「あ〜、それでか〜〜💡」と
皆に納得されやすかった、
というのも。
<シューベルト=ギター>という伝説に強力な説得力を与えたのだと思います。
僕は2003年くらい(この日付ははなはだ自信がありません)でしたか、
「水車小屋の娘」を
その時ちょうどウィーン・フィルと一緒に来日していた
ヘルベルト・リッパートさんと一緒に演奏しました。
確か翌年も。。。。
そして、その後有楽町のラ・フォル・ジュルネで
吉田浩之さんともご一緒しました。
通算3回かな・・・・
そのほかにも頻繁に歌曲の伴奏はさせていただいていますが、
皆さんが思っておられるより、
コンセプトはギターなんだけど弾き勝手は困難を伴います(笑)。
コンセプトはギター、
て言ったのはさっきも書いた
和音の進行とか音形についてなのですが、
これに関して、
先日知り合いになったジェイコブ・ケラーマンさんという
スウェーデン出身でオランダなどを中心にヨーロッパで活躍している
ギタリストが、彼の意見を教えてくれました。
一般に“ビーダーマイヤー時代”あるいは“ビーダーマイヤー様式”
と言われている当時勃興したブルジョワジー文化において、
ギターというのはちょっと爪弾くためにいつもそこに転がっていた楽器でした。
ジェイコブくん曰く、
だからその様式の文化の日常には、
ギター的なハーモニーが根強く人々の記憶や意識に根付いていた、と。
そのことはシューベルトの室内楽などでも
ピアノの和声を見てみると容易に理解できる、
つまり、通常のドイツ音楽の伝統的な、
密集配置主体の声部進行が、開離配置を多く含むものになっている。
これはギターで作曲したからそうなっているのではなく、
そういう濃密というよりは“トランスパレント(透明)”な和声のイメージが
シューベルトにはあったからだ、と。
僕もまったくその意見に賛成でした。
密集配置というのは乱暴に言えば「ドミソ」、
開離配置というのは「ドソミ」のことです。
「ドソミ」の「ド」と「ソ」の間には
もちろん飛ばされた「ミ」が存在しますが、
それをあえて一オクターブ上で弾くと
おたまじゃくしがお団子のようにくっついた状態じゃなくて
隙間ができるわけです。
ちなみに、
ジャズの和音は「ドミソ」の中に色々な音が混じって
「ドレミソラシ」みたいなことが起こるわけですね。
で、ギターはそれは不可能なので、まず、ベースが弾いてくれる
「ド」は省く。
それで「ミラレソ」とか弾くわけです。
これも大雑把な説明なので話半分に聞いてくださいね。
でもそこからさらに発展させて、
「ミドレラシミ」とかやると、
すごく透明感があって美しいオーケストラのようなサウンドになります。
しかしながらこの、「ミ」が一番下に来る、っていうのは、
ドイツの和声規則では和声進行のの途中以外では「絶対に」
やっちゃいけないと教わるんですね。
そして「ミ」が二個以上ある、っていうのもアウト。
つまり、ドイツ和声を極めようとすると
ギターは即日落第なんです。
ところが、
ビーダーマイヤー様式におけるギター曲の数々には、
終止の和音が「ミドミソドミ」なんていう、
もう明日から君は学校には来なくて良いからね、
って言われちゃいそうな和音が書いてあるのです。
つまり、ギターだと綺麗にサウンドする、ということです。
ものすごく説明を省いて簡略にいうと
この形態の終止和音が書いてあるのは
ウィーン古典派と現代のブラジル音楽が最も代表的です。
お分かりいただけましたでしょうか。
非常に近い時間に同じ街で暮らしていながら、
ベートーベンまでは王侯貴族がパトロンとして機能していたのに対し
シューベルトくらいから芸術音楽の担い手が
比較的裕福な中流階級にうつって行った、
という社会構造が、ギターの隆盛をもたらしたのだ、
・・・・と言いきるのにはもう少し勉強しないといけませんが。
ところで、さっきのジェイコブさんが
ヴァイオリンと一緒にシューベルトの曲を録音しているのですが、
このCDが素晴らしいのでご紹介します。

収録曲は「アルペジョーネ・ソナタD.821」
「ヴァイオリン・ソナタD.574」
そして「ソナチネ第1番D.384」
ソナチネやアルペジョーネはわりと一般的ですが、
この「ソナタ」の編曲、
僕も一度20年くらい前に1楽章だけやってみましたけど
一回やってやめたくらい大変だったのに、
ここでは全楽章、しかも、素晴らしい演奏です。
これ聴いて、
ぜひやりましょう、ってヴァイオリニストに誘われたら
ちょっとこたえるな〜〜〜(^ ^;)p
そしてこちらのCDも
すごく雰囲気があります。

Schubertiade
実際、こんな感じだったのでしょうか~~~